人の死に直面した話 主に祖父について
こんばんwasperger.
つい先日、友人の一周忌法要に行ってきました。
お坊さんの読経、説法に加え、生前の思い出を振り返るムービーが用意されていました。
私にとって故人は短い間の付き合いでしたが、遺族が「どうか生きてください、幸せになってください」と参列者に話された時は、悲しく、故人が恋しく、涙が流れました。
20代というあまりにも早すぎる死。
どんなに健康で生きていても、事故では避けようがない。
今生きていることが当たり前じゃないとはよく言うけれど、そんなに簡単に人の死を受け入れることはできないよー……
と、悶々と帰宅し、なんとなく久しぶりに実家に連絡を取ってみると
まさかの祖父がコロナで危篤状態。
実家の家族はコロナに感染し、体調が万全じゃない状態で「実は……」と語りだす。
そして翌日、祖父が亡くなった。
健康オタクで誰よりも身体に気を付けていた祖父に限ってはありえないと思った。
あと数日で誕生日を迎えるはずだった。
祖父は数年前から認知症の症状が出るようになり、施設で暮らしていた。
私は一度だけ東京から東北の田舎までバイクで会いに行ったことがある。
その時既に祖父は健康オタクの片鱗もなく、短髪で薄い真っ白髪に、オムツを履いて、足元がおぼつかない様子だった。そして、孫である私の名前も顔も忘れてしまっていた。
高校生までほとんど毎日顔を合わせていたが、大学進学とともに家を出た私は、その頃家族との折り合いが悪く、その後祖父とほとんど会うことはなかった。
よく祖父のことを思い出しては、祖父が作ってくれた具沢山の味噌汁をまねて作り、寂しさを紛らわせていた。時々、思い出したように電話を掛けると楽しそうにしていた祖父の声がうれしかった。
それから数年が経ち、東京で就職しいよいよ地元から離れてしまった私は、ある折祖父が「怪しい」、という話を聞くことになる。
それは結婚した兄弟からで、結婚の挨拶のために祖父宅を伺うと、尿のにおいがしたという。おそらく尿漏れをしているようだった。
その後、母との相談によって祖父におむつをプレゼントしたとのことだったが、それが気に食わなかったのか激怒してしまい、兄弟がなだめたと後で聞いた。
その後ドミノ式に交通事故、大量のサプリメントや占いグッズ、訪問販売などの契約を大量にさせられていたことなどが明らかになり、祖父は母宅に引き取られることになった。
母には上の兄弟がいる。だが、その方は幼少期から祖父の自分に対する行為がどうしても許せず、以後祖父には関与しないと絶縁をつきつけたということだった。
そのため、母が手続きをし、祖父には施設に入所してもらうことになった。
帰宅願望、怒りっぽい、認知症の進行、筋力低下による骨折、持病と老化。
このコロナ禍、祖父は施設でぼーっと一日をすごすことも多かったようだが
食事の時だけはしっかり黙々と食べていたらしい。味噌汁が出ない日は「味噌汁を出せー!」と怒っていたという。
施設内で感染者が一人出ると高齢者(100歳超もいる)がバタバタと体調を崩してしまうので、面会はずっと厳禁だった。だから、三年前に会えたのが最期になってしまった。
祖母は、もう20年以上前に病気で亡くなっている。祖母はとてもやさしい人だった。私がまだ幼く、一時期一緒に暮らしていた頃の祖父はとても怒りんぼうで、怖い人だった。
どれも意味があっての行為だが、走って家じゅう追いかけまわされたり、プレゼントを目の前で叩き壊したりするような人だった。言葉で伝えるということが苦手な人だったのだと思う。不器用な人だった。損しやすい人だった。そういう意味では、私は祖父の遺伝子を強く受け継いでいる。
家が分かれ、別々に暮らすようになってからは、ある時は大泉逸郎の「孫」を上機嫌に歌い、またある時は西城秀樹の「傷だらけのローラ」を歌っては、私のことをローラと呼ぶようになった。
それでも過去の祖父への嫌な記憶があった事、そして自身の置かれた複雑な環境下においてはそれを愛情とは受け取れず、酷いことを言って冷たい態度を取るような思春期をすごした。
地元に残る孫が最後、私一人になってからは、数えきれないほどたくさんの温泉に二人で出かけたし、よき人生の先輩として私の話し相手になってくれた。
大学進学が決まると、地元に帰っておいでと頻繁に言うようになった。祖父の土地をあげるから帰っておいでと、しつこいと感じるほど言うようになった。
祖父の寂しさを全く顧みることなく、地元を出てしまった。
あれから数年が経ち、私はやっと社会人になった。
胸を張って地元に帰れるという時に祖父が施設に入所した。
そこで、兄弟夫婦と予定を合わせて面会に行った。
おそらく5年以上ぶりの再会だったので何を話したらいいか道中ずっと考えていたが、会ってみるとそんな心配が無駄だと思えるほどに祖父は老いてしまっていた。
何を話したのかはもう思い出せない。
数枚の二人での写真を手に、東京へ帰った。
コロナウィルスが流行りだした頃、時々手紙を書いて送るようにはしていたものの、仕事を辞め一人生きることで精いっぱいの私にはほかにできることがなかった。
コロナを発症し、一週間もの長い間ウイルスと戦った祖父の体は限界を迎え、施設で一人逝った。
母も何度か痰吸引をしに行ったとのことだった。
不整脈で息が荒く、目も開けられないなか、母の声にウンウン、と頷いていたという。
苦しんで亡くなったのではないかと思うと、こちらも胸を締め付けられるようだった。
母や兄弟、親族の間でもコロナ感染中の人が多く、なかなか思うように動けない中やっと火葬と葬儀の日程が決まった。
火葬には母も私の兄弟も参列が出来ないので、私は彼女たちの思いと共に火葬場へ向かうことになった。
会いたくてももう会えない。
あの味噌汁はもう一生食べられない。
それでも、真似をすることはできる。
今日の晩御飯は、祖父のあの具沢山味噌汁をまねて一人食べた。
祖父が恋しい。
もっとたくさん話せたら、私がもっと精神的に成熟して祖父とたくさん話が出来たら、もっと地元に帰っていたら、とずっと後悔している。
祖父がこの世に存在しない世界で生き続けることができるんだろうか。
それでも日々は続いていくのだろうか。
私はこの先、死ぬまでどんな生き方ができるのだろうか。
頼むから私一人に祖父の骨をすべて拾わせてほしい。